「消極的ポジティブ」という考え方について
どうも、ゆらりです。
夏コミに参加された方はお疲れさまでした。自分は田舎勢なので、とりあえずメロンブックス様の通販に8万円ほどつぎ込んでおきました。配送されるのが楽しみです。
さて、今回は僕が生きていくうえで自分の根底に置いている「消極的ポジティブ」という考え方についてです。
簡単な話で、物事を消極的に捉えながらも自分はポジティブでいるというものです。
身の回りのことを例に取り上げて考えてみましょう。
人間生きているといろいろな人に出会いますよね。中にはいい人もいれば「なんだこいつ」と思ってしまうような人もいるでしょう。
自分は他の人からどう思われているか、どんな風に見られているかを結構気にしてしまうタイプです。「こんな風に思われてないかなぁ」「嫌われてないかなぁ」など、表情には出さずともいろいろと考えてしまいます。
また、他の人に対していろいろ考えてしまうこともあります。「こんなことをするなんて非常識だとは思わないのか?」「人の気持ち考えたらこんなことできないよなぁ」などなど……。特に仕事をしている時は頻繁に考えてしまいます。
しかしながら、よくよく考えてみると、これらは「自分にはどうしようもできない」ことなのです。
先ほどの例をもう一度考えてみます。
自分が他者からどう思われているかをいくら考えてみても、それを本人に聞かなければ知ることなんてできません。確かにうざいな、キモイなと思われている可能性もあるでしょうが、もしかしたらそうではないかもしれない。そもそも歯牙にもかけず、考えられてすらいないかもしれない。
他の人に対していろいろと考えを巡らせてみても、それを自分から言わない限りは相手に伝わることなどないのです。もしそれを相手に伝えてみても、それに反省の色を見せるかもしれないし、逆上するかもしれない。これまた歯牙にもかけず、無視されるかもしれない。
これらはどのパターンの確率がどのくらいあるか、という計算は不可能です。人によって感じ方が違いますし、そもそも相手の心を読めるわけでもないので、自分の中に確率を出してみても、それは自分が勝手に決めたものです。
これを広義的に捉えると、人の行動や評価やその他もろもろの有象無象は、結局のところ「自分にはどうしようもできない」のです。いい方向に持っていこうと努力しても、それが上手くいくかもしれないし、逆に上手くいかないかもしれない。そもそも努力の方向が間違っているかもしれない。努力したところで気にも留められないかもしれない。いろいろ考えてみてもどう転ぶかなんて誰にもわからない。これがいわゆる「消極的」の部分です。
では「ポジティブ」の部分はなにか。簡単に言ってしまえば「そんなことよりおうどんたべたい」の精神です。
いろいろ悩むことなどもあるでしょうが、結局のところそれらは自分にはどうしようもできないこと(どうにかしようと行動することはできるが)。そんな運否天賦なことを延々と考え続けるよりも、おいしいうどんのことを考えていた方がよっぽど心も健康でいられるし、なによりも楽しい。
もちろんうどんに限った話じゃありません。ここには好きなものを好きなように入れられるのです。例えば「そんなことよりも○○先生の新刊面白かったな……あそこのコマとか最高に可愛かった……」とか「それはさておき○○さんの薄い本でシコりてぇな……今日はあの本にしようかな……」などなど。
ここで注意していただきたいのは、ただただ周りのことを気にすることを「どうしようもないこと」と捉えるのではない、ということです。つまるところ、清潔に見られたいのなら自分から進んで清潔さを醸し出すよう努力すべきだし、暗い人間に思われたくないのなら笑うなどはすべきだということです。手を尽くしたうえで「自分はここまでやったのだから、後のことはもう自分ではどうしようもない」と考えるということです。
いろいろと悩む気持ちは僕自身理解できます。しかしながら、その悩みは果たして自分だけで解決できるものなのか? とも思うわけです。
もちろん自分のやり方次第でなんとでもなるものは「じゃあやりなさい」で済みますが、自分のやり方だけではどうしようもないことで悩んでいる場合、それで悩み続けて何とかなるのか? ならないんじゃないのか? と僕自身は思います。
悩みを深くまで掘り下げて考えるのが悪いとは言いませんが、そんなことを延々と考え続けるよりも、自分の好きなことを考えている方が楽しいのではないでしょうか。その方が幸せになれるのではないでしょうか。
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